( Prologue )
Where Gestalting begins

形より先に、全体がある

「デザインとは、対象に形を与えることではなく、全体から対象を導き出す実践である」。一つのプロダクトをつくるとき、その機能や形状を考えるだけではない。一つの建築をつくるとき、その意匠や構造を考えるだけではない。私たちはまず、その対象が存在する世界や次元、その背景にある歴史や思想、関わる人々、そしてこれから描こうとする物語を観測します。人、組織、事業、文化、社会、環境、そして時間。それらは互いに関係しながら、対象が存在する意味を形づくっています。思想は戦略へ、戦略は組織へ、組織は行為へ、行為はプロダクトや空間へ、そしてそれらは人々の経験や記憶へとつながっていく。対象は、それ自体で独立して存在するのではなく、より大きな全体との関係の中ではじめて、その意味を持つのです。

だからこそ、私たちは「何をつくるか」「なぜつくるのか」からではなく、「いかなる世界に存在しているのか」という根源的な問いから、その対象が属する全体を捉えていきます。存在を取り巻く関係と時間を捉え、その歴史や思想、未来への意志を読み解きながら、そこに必要なものを見出していく。思想、戦略、組織、言葉、プロダクト、建築、空間、映像、グラフィック、ウェブは、単に個別の課題を解決するための成果物ではありません。一つの物語が進んでいく中で、その時々の全体に内在する必然として現れるものです。部分から全体を組み立てるのではなく、全体から部分を導き出す。形より先に、全体がある。この転回こそが、私たちの実践の起点です。Patmosは、全体を観測し、そこから必要な部分を導き、その関係を形づくっていく実践を「Gestalting™(ゲシュタルティング)」と呼んでいます。

Image references for Prologue
Image References [1] Kojiki 古事記 (1644), Kokugakuin University / Kawanabe Kyōsai, Susano-o no Mikoto Subduing the Dragon Yamata no Orochi (1887), British Museum / Edgar Degas, Sheet of Studies and Sketches (1858), Cleveland Museum of Art / Hippolyte Bayard, Classical Head in Profile (ca. 1839), The Met / Immanuel Kant Papers (1744), Smithsonian / Star Mandala (13th–14th c.), The Met / Walter Crane, Household Stories from the Collection of the Brothers Grimm (1896), Library of Congress.

全体は、部分の総和を超える

しかし、全体を先に考えるだけで、意味ある全体が生まれるわけではありません。理念をつくる。組織をつくる。プロダクトをつくる。建築や空間をつくる。それぞれの部分がどれほど優れていても、互いに関係していなければ、それらは一つの全体として立ち現れません。私たちが深みと奥行きのある文化を持つ組織に感じる一貫性は、すべてが同じ形をしているからではありません。理念や戦略、組織、商品、空間、言葉、振る舞いという異なる部分が、互いの意味を支え、変化させながら、一つの思想や価値観を顕しているからです。理念が言葉だけにとどまらず、日々の判断や振る舞いにまで息づくとき、一つの部分に触れるだけでも、その背後にある全体を感じ取ることができます。

全体とは、部分を足し合わせた結果ではなく、部分と部分の関係から生まれるものです。一つの部分が変われば、その関係が変わり、全体も変わる。そして全体が変われば、それぞれの部分が持つ意味もまた変わっていく。関係は固定されたものではなく、人々の実践や時間の積み重ねによって、絶えず結び直されていきます。そこでは、一つひとつの価値が単独で存在するのではなく、互いに響き合うことで、個々にはなかった新しい価値が立ち現れます。だから、全体を捉えるとは、すべての部分を知ることではありません。部分の背後にある関係を観測し、それらを一つの全体として捉えようとすることです。では、私たちは、自らもその一部である全体を、どのように認識することができるのでしょうか。

Image References [2] Nicolaus Copernicus, De revolutionibus orbium coelestium (1543), Linda Hall Library / Eadweard Muybridge, Animal Locomotion IX: Horses (1887), The Met / NASA, Lunar Surface Photographed by Surveyor V (1967), The Met / NASA/JPL-Caltech et al., Curiosity’s ChemCam Views Summit and Cliffs Beyond Gale Crater / NASA/JPL-Caltech, Using Methane Absorption to Probe Jupiter’s Atmosphere / Newcomb & Holden, Astronomy for Schools and Colleges (1879) / Ramon Llull, Tractatus novus de astronomia (15th c.), Biblioteca de Catalunya / Sonja Brentjes, “Islamic Cosmological Diagrams,” The Diagram as Paradigm (2022), Dumbarton Oaks.

認識としての真、意志としての善

「全体とは何か」を問い続ける中で、私たちは、古代から哲学が探究してきた「真・善・美」に辿り着きました。人間はいかに世界を知り、善く生き、何を美しいと感じるのか。全体を捉えるには、対象そのものだけでなく、それをどう認識し、どう関わり、何を感じるのかを問う必要があります。全体は、認識し、意志し、感受する私たちとの関係の中に現れるからです。私たちが見ている世界は、世界そのものではありません。人は「物自体」を直接捉えられず、経験や知識、文化、価値観を通して世界を認識しています。生物学者ユクスキュルは、生物が知覚し、意味づけながら生きる固有の世界を「環世界」と呼びました。同じ世界にいても、人間と動物、人間同士でも、見えている世界は異なります。私たちは誰もが全体の中にいながら、その一部を自らの物差しで見ているのです。

だから真とは、唯一の正解を所有することではなく、自らの見方を真実と思い込まず、認識を問いながら、まだ見えていない全体へ近づこうとすることだと考えています。認識だけで行為は決まりません。その世界に対してどう在るべきかという意志が必要です。善とは、何が倫理か、何が正しいかではなく、それ自体として善いことを選ぶ意志です。結果や損得に先立って、他者や社会、未来に対する自らの在り方を問い、実践する。そこに「善意思」としての善が現れます。真は、全体をいかに認識するか。善は、全体に対していかに意志するか。真によって認識を問い、善によって全体に対する自らの在り方を引き受ける。この認識と意志を、全体と向き合う二つの基底と考えています。しかし、人間は認識し、意志するだけではありません。世界に触れ、調和や違和感を覚え、ときに説明するより先に、美しいと感じるからです。

Image References [3] Codex Sinaiticus Petropolitanus (1911), Clarendon Press / Saint John on Patmos (ca. 1450–1500), The Met / Pacino di Bonaguida, Saint John on Patmos (ca. 1303–20), The Met / W. E. Geil, The Isle That Is Called Patmos (1897), NYPL / Inscription from the Temple of Artemis (2nd–3rd c. AD), Monastery of St John the Theologian, Patmos

美は、全体として現れる

では、美とは何でしょうか。美しいものをつくろうとするとき、色や形、素材、比率といった目に見える部分へ意識を向けます。しかし、美はそうした部分の中にあるのでしょうか。カントは、美を「目的なき合目的性」と表現しました。何かの役に立つからではなく、特定の目的を前提とせずに、部分と全体が「こうあるべくして、こうなっている」かのような調和を感じることです。一輪の花を美しいと感じるとき、私たちは機能を評価しているのではありません。その形や色、均衡に、説明しきれない整いを感じます。カントはさらに、美を「自由美」と「附属美」に分けました。花のように目的や概念を前提としない自由美と、デザインのようにそれらを前提とする附属美です。注目したのは、説明に先立って調和を感じ取る人間の感性です。宇宙の中に地球があり、自然があり、私たちも存在しています。その関係をすべて理解できなくても、そこに秩序や調和を感じることがある。

美とは、全体をいかに感受するかという、人間と世界との関係なのです。美は目に見える形だけでなく、人の人格や振る舞い、生き方にも現れます。思想や意志、行為と、そこから現れる言葉や形。内と外が一つの全体として関係したとき、そこに美は立ち現れます。では、なぜ人間のつくる世界から、美が失われるのでしょうか。現代社会は、機能を分解し、計測し、改善し、最適化することで発展してきました。しかし、部分の合理性と、全体の美しさは同じではありません。美の欠如は、造形の問題ではなく、全体と部分の関係が失われることなのです。私たちは、美という対象をつくろうとは考えていません。全体を観測し、必要な部分を導き、意味ある関係を結ぶようにする。その全体に触れた人が、「こうあるべくして、こうなっている」と感じたとき、美は立ち現れる。美しい形をつくるのではなく、美が立ち現れる全体をつくる。それが、私たちの実践です。

Image References [4] Karl Blossfeldt, Art Forms in Nature (1929)

全体は、時間と次元の中に現れる

私たちが捉えようとする全体は、一つの固定された姿をもつものではありません。同じものでも、どの次元から観るかによって、異なる相として現れます。一つの建築は、空間として見れば形や素材の関係であり、生活から見れば人々の営みの場であり、社会から見れば街や文化を構成する一部でもあります。それぞれは異なるものを見ているのではなく、同じ全体が異なる次元に現れた一つの相です。遠く離れた場所で生まれたものや、異なる価値観や領域にあるものが、思いがけず同じことを語ることもあります。一つの次元からでは見えなかった関係が、別の次元から観ることで現れ、それまで部分として捉えていたものが、より大きな全体の中で意味を持ちはじめる。全体を捉えるとは、一つの視点からすべてを説明することではなく、異なる次元に現れる相を通して、その背後にある関係を観じることなのです。

そして、全体は時間の中でもその相を変え続けます。私たちが目にしているものは、現在という一点だけに存在しているのではありません。そこには受け継がれてきた歴史や記憶があり、現在の選択があり、まだ存在していない未来への可能性があります。同じ思想や形であっても、置かれる時代や関係が変われば、その意味も変わっていく。過去から現在へ、現在から未来へ。あらゆるものは時間の中で生成し、変化し続けています。だから、全体とは完成された静的な状態ではありません。異なる次元に異なる相として現れ、時間の中で絶えず生成し続ける、動的な存在です。私たちは、変化を観測し、自らの認識を問い直しながら、その時々の全体に内在する必然を見出していく。Gestalting™とは、完成された形をつくるのではなく、時間と次元に現れる全体を捉え、必要な形を導き続ける実践でもあるのです。

Patmos visual identity: typography, printed matter, and graphic studies

What Is Patmos

エーゲ海に浮かぶ、かつて流刑の地とされた小さな島。新約聖書の『ヨハネの黙示録』は、この島で記されたとされています。ヨハネは、隔絶された場所から自らが生きる世界を見つめ、その終わりと、その先に現れる新しい世界を描きました。私たちはこの物語に、単なる終末の預言ではなく、それまで当然とされてきた世界から一度距離をとり、その前提を問い直す営みを重ねています。終わりを見つめることは、その先にある新しい世界の可能性を見つめることでもあります。私たちの実践もまた、「批判」から始まります。ここでいう批判とは、何かを否定することではありません。目の前にある世界を当然のものとして受け入れず、自らの認識そのものを問い直すことです。私たちは何を見ているのか。なぜそう見えているのか。そして、まだ何が見えていないのか。対象から一度距離をとり、その背後にある歴史や文化、環境、関係、時間へと視野を広げることで、それまで自明だった世界を、異なる視点から捉え直していきます。

世界の見え方が変われば、そこから導かれる形も変わります。かつてコペルニクスが天体の見方を転回し、カントが人間と世界の認識の関係を問い直したように、重要なのは、新しい答えを加えることだけではなく、問いの前提そのものを問い直すことなのだと、私たちは考えています。答えを変えるのではなく、世界の見方を変える。その転回によって、それまで見えていなかった関係や可能性が現れ、新しい物語がひらかれていく。だから、Patmosは特定の形をつくるための場所ではありません。目の前の世界から一度距離をとり、自らの認識を問い、異なる世界の可能性を構想し、それを実践するための場所です。観測し、批判し、構想し、実践する。その往復を通して、世界の見方そのものを更新していく。Patmosとは、世界を批判的に観測し、まだ見えていない全体を捉え、新しい世界の可能性を実践する存在であり、学問なのです。