美しさは、作為の外に

富田良祐さんの話には、「正しさ」という言葉がたびたび現れます。Patmosのクリエイティブディレクターとして、与えられた条件を一つひとつ確かめ、その場にふさわしい形を探していく。思いつきや好みに先立ち、なぜそうあるべきなのかを問い続けること。それが、富田さんの実践を支えるひとつの態度です。一方で、富田さんが美しさを見出すのは、必ずしも人の意図によってつくられたものではありません。ただそこに在るもの。人の手を離れ、時間や環境によって変化し、やがて風化していくもの。そこには、つくり手の意図や計画だけでは捉えきれない美しさがあります。

正しくつくろうとすることと、つくろうとしても届かない美しさ。意図することと、意図を超えて現れるもの。そのあいだに、富田さんのものの見方があります。Epilogueでは、富田さんの実践を通して、正しさと美しさはどこで交わるのか、その問いを辿ります。

Photography by Ryosuke Tomita

どうぶつと作為性
———美を基底とする対話

P 富田さんは、国内外を旅したり、週末には陶芸や染色、山登り、音楽活動など、幅広く文化活動をされています。そうした経験も含めてどんなものに美や感性を強く感じるのか、教えていただけますか。

富田 すぐに思い浮かぶのは、どうぶつでしょうか。ただ生きているだけで美しさが宿る、その凄まじさ。美と言っていいのかはわかりませんが、行動のひとつひとつに作為が無いですし、「ただしたいからしている」という様相そのものを心から善いものに感じます。もし仮に霊が見えたとしたら、きっと同じように綺麗なんだろうな、と想像するんですよね。それこそ霊も動物も、人間界には属していない存在なのかもしれません。

P 想像するに、どうぶつも霊もどちらも恣意的で、ただ現象するだけの存在ですよね。

富田 本当にただ現象しているだけなんでしょうね。対して人間は、それらと対極の存在のように感じます。私、そもそもヒトという種に対する興味はそこまでないんですよ。人間はもっと現象しているだけじゃなさがあって。ピュアではなく意図がありそうですし、過剰な贅沢もするし、自然も壊すし、人が人に対して嫌な思いもさせる。「全人類いなくなっちゃった方がいいんじゃない?」と思うこともありますが、その一方でヒトが存在することの貢献性もあるのかもしれないと考えることもあります。

P おっしゃっていることから、人間の利己性や作為性に対する厳しい眼差しが強く感じられます。

富田 そうですね。つい先日アアルトが設計した「アアルト自邸」を訪問したのですが、完成当時の姿を私は良いものだと思わなかった気がします。それが没後50年を経て建物が使われなくなった結果としての現状———草が覆うように繁った壁とその窓越しのやわらかな光、立て付けが悪くなった家具など———にはとても美的な気配を感じました。もとは人の手から生まれ、人の関与とともに経年変化した造形ですが、その後、そこに人不在の時間が流れ、風化していったからこそ、ここまで心を動かされたのだと思います。……人間が関わったことでついた手垢がなければ、これほど胸を打たれることもなかったと思うので、単なる経年礼賛でもないのが難しいのですが。

P 興味深いです。

富田 近頃の一部の建築やプロダクトを見ても興味が湧かないのは、作者の意図があまりにも明確で、「こう見せたい」といった演出的な作為性を感じてしまうからかもしれません。結局「ただ作りたくて作ってしまった」という純粋さに、面白さや美しさを最大限に感じます。あれこれ考え抜いて作られた人工物には意外と美は宿らないのかもしれませんね。

P 富田さんの日常的なアウトプットは、ロジックに裏打ちされた「西洋的なデザイン」とも言えそうですから、ご自身が生み出すものとの間に、ある種の逆説的な構図が生まれそうですね。

富田 そうですね。私は結構、整然としたものを作るんですが、それらを「構築的な美」として捉えているところがあります。言い換えれば、そこには真の意味での「美」はないんじゃないかと。私が本当の意味で感じる「美」に到達することは、人間特有の作為性を持っている限り不可能なのだろうと思っています。

P そのジレンマを抱えながらデザインに向き合うからこそ、見えてくる境地もありそうです。富田 美を哲学したばかりに、美の対象に名前がついて却ってヒトの感性が乏しくなってしまったのではないかと考えることもあるんです。美による原初的な感動や喜びを表すことを言語化が代替してしまったのではないかって。

P もしヒトが美を教育されず、言語も今ほどまでに発達しなかったとしたら、どのように美を表現したと思いますか。

富田 たとえば美しい光る石を見つけたとしたら、まずは持ち上げて眺めたんじゃないでしょうか。それから涙したり、大勢で車座になって囲んだり、ものすごく踊ったりして。ひとしきり儀式(?)を終えたら同じようなものを作ろうとするけど作れないことが分かる。作れないってことは「ヒトならざるものだ」みたいに、人智が及ばないものだと感心するのかな。……わかりませんが(笑)。

P ともすると言語化されたことによって、思考停止してしまった身体感覚というものが大いにありそうですね。

富田 そうですよね。私は仕事で言葉を大いに使っていますし、ヒトは必要に駆られて言語を発達させたので、この問題から逃れようもなかったようにも思いますが……。それでも「美」を言葉にするより、学習や教育以前の状態にある美を表現することが、いちばん大切な気がします。我々が思っている「美」は、教育されてインストールされたものだと思いますし。「美」に名前を与えたり、定義したりした瞬間に、実像のピントが結べなくなるんじゃないでしょうか。

P 富田さん自身は、ていねいに言葉をすことを求められる立場にありながら、その対極にあるコミュニケーションのあり方に強く惹かれているのでしょうか。

富田 全くもってそうですね。言葉があるばかりに起こる弊害は結構ありそうだなと。共感という名のもとに起きる過剰な同調主義もそのひとつですし、言葉には嘘のようなものが必ずある。態度で示すことの方がよほどシンプルで、たとえば表情や感情を嗅ぎとる能力が発達すれば良かったのでは? と可能性に思いを馳せることもあります。

The Aalto House 01

正しさを求める意思と、「正しさ」を手放す素直さの共存
———真と善を基底とする対話

P 先ほど「ヒトという種族に対する興味の薄さ」について言及されていましたが、一方で、「個人がなぜ特定の思考に至るのか」という点に富田さんは関心を寄せていらっしゃる点は示唆に富みます。

富田 他者にとってはふつうのことでも、自分には解釈できないこと、理解できないこと、あるいは考えたこともなかったことがこの世には存在します。つまり普段の自分のものの見方ではどうしても認識できない領域がある。正直に言うと、Patmosでクライアントのアーキタイプを探るときにも、理解が追いつかないことは結構あります。それでも挙げられたテイストや対象物の良さを理解していかないとクライアントの美意識を正しく炙り出すことはできません。そうして調べていくうちに、やっぱりと言いますか、「理解できなかったもの」でも徐々に良さが見えてくるんですよね。それが自分の中の「良いものデータベース」に蓄積されることもあります。自分にとって未知だったものが、既知のものへと変わっていく過程は面白みがありますよね。

P 文字通り「世界を正しく」理解することは、固有の種族、個体である限りほぼ不可能ですが、それでもできるかぎり無知と既知の結節点を見出そうとしたり、無知と既知から成るカオスに筋道を立てようとしたりする傾向が強いのでしょうか。

富田 そうですね。なかなか負荷のかかる作業ですし相当面倒くさいので、自分の興味だけでやるかと言われると正直わかりません。けれども仕事で必要とされる場面があると、つい没頭してしまいます。気づけば事象を深く掘り下げたくなるんですよね。その作業から見出される、自分だけでなく誰が見ても納得できる解を提出することはすごく有意義です。

P 主観ではなく、客観性や事実に立脚した解を追求するふるまいはまるで自然科学者のようです。

富田 シンプルな話、主観優位で物事を進めるのがただ苦手なのかもしれません。どちらかと言うとデザイナーなどのクリエイティブ職は、この世になかったものを生み出す創造的な仕事だと認識されがちですが、私はそういうことに苦手意識があるんですよ。昨今、完全にオリジナリティのある作品や制作物は生まれにくいとは思いますが、それを差し引いても、私にとってオリジナリティのあるものを作ることは難易度が高いんです。アーティストにしてもペインターにしても楽しんで作品に向かっている人ほど、オリジナリティ———つまり、よくわからない状態を生み出すことができると思うんですが、私の場合、その状態を作るにはすごく頑張らないといけない。それどころか無理やりにでも強い負荷をかけて、使う脳を切り替えるような感覚があって、それでようやくなんとか捻り出せるんです。

P 確かに富田さんの通常のセオリーでは、与件や前提を整理した上で「こうでしかない」と思われる正解まで論理をていねいに積み上げてゆく印象があります。インスピレーションありきというよりは、ロジックありきと言いますか。

富田 そうですね。基本的なスタンスとしては、正解を出すためと言いますか、そのブランドやプロジェクト、場における「正しさ」を優先して作っていると思います。だからあまり突飛なことは言わないですし、正しさを優先しない方法を自然にとることは難しい。正しさ以外のものを優先することは自分の性質から外れた振る舞いなので、どことなく嫌な感じがしますし、どこか嘘っぽさも覚えます。

P それは仕事に限ったことではなく、もともとのご自身の性分でもあるのでしょうか。

富田 仕事柄、正しくないと「正しくない」と言われてしまう立場ではありますが、そもそもの性分としても正しさを求める傾向は強いと思いますね。

P 「正しさと楽しさが相反的に位置するのであれば正しさを求める性質が強く、物事の決定においても楽しさよりも正しさを優先している気がする」とのこと、事前取材でもお伺いしていました。

富田 自分にとっての喜びのようなものや、手放しで楽しむ感覚のようなものが自分自身でもあまりわからないんです。それは自己認識としてもちゃんとあって。お笑いとかもあまり見られないというか、見ないんですよね。すごいなとか面白いなとか思うこともあるにはあるんですが。それと同じで趣味でやっている陶芸も「本当に楽しくてやっているんだっけ?」とふと思う瞬間があるんですよ。思い通りに完成した瞬間はすごく面白いんですが、それまでは全然面白くないというか。みなさんは、ふだんどう思っているんですかね。そんなこと、考えていないのかな。

P まさに完成の喜び以上に、プロセスそのものが楽しいという人もいますよね。

富田 そうですよね。部分部分での面白さはありますが……私の場合、もし理想通りのものができなければ、その過程がどうであれ、全然面白くないという結論になるんですよ。最初から最後まで面白くなかったと思ってしまう。

P 自分が関わる物事は、精緻であってほしいという願望が強いのでしょうか。

富田 そういう「正しさ」を私は持ってしまっているんでしょうね。そこに向かうことを至上命題としている以上、プロセスに楽しさを求めていないのかもしれません。とはいえ物事の完成が見えてくるにつれて、徐々に喜びを感じているのも、自分でわかってはいるんですが。仕事にしてもそれが感じられたときは「良い仕事だったな」と思えますし。それこそ快楽的なものなのかもしれませんが、人生において自分が満足できることってそんなに無いじゃないですか。音楽にしても、料理にしても、日常生活にしても———あらゆる場面で、自分自身が、何に楽しさを感じるのかを知ろうとしているのかもしれません。……なんだかロボットみたいですね、私。

P お話を聞いていますと、自分の感情も含めて、物事に絶対的なものはないと考えているように感じられます。

富田 基本的にそんなにポジティブではないんですよね。生まれながらの脳のつくりとしてリスクを察知しやすいのか、あるいは後天的にそうなっていったのかは分かりませんが。物事を思索しつづけると、大体のことはポジティブ一辺倒にはならない気がするんです。一定の段階で思考を止めれば物事を楽観的に捉えることもできるのかもしれませんが……その点において、おそらく私はかなり慎重だと思います。

P 潜在的な可能性をできる限り算出して、その対策や心構えをしたいのでしょうか。

富田 そうですね。たとえば全く知らないところに行く場合、結構疲れます。「事前準備をしなくてもよかった」と思ったことはあまりないですね。それよりも危機感を持たずに安心していられる状態が大事なんだと思います。ただ、予定調和に心から甘んじているわけでもなくて。十分にやりきったと思うところまで手を動かした結果として発生したカオスのような状態は受け入れられるんです。要は自分自身が十分に思慮を巡らせられなかった結果として起きる混乱が受け入れがたいんでしょうね。

P 外的要因は甘んじることができるけれども、自分の行動や判断で改良できたことには、自己内省的な気持ちが強く働くと。

富田 そうなんでしょうね。外的要因はどうしようもないところがあるじゃないですか。だから手放せるんですよね。「ああ、これはもう手の及ばない領域だな」と思えばポンと諦めるようにしています、なるべく。それまで積み重ねてきたものや、心を砕いてきたこともあるので早々に割り切るのが難しいこともありますが、それでも頑張ることの意味のなさを見出したら、「もうやめるか」ってなりますね。

P 生まれ育った環境や土地柄による影響もあるのでしょうか。富田さんはいわゆる「九州男児」的な傾向を良しとする土地に生まれ育ちました。ただご自身の天性の資質は、その気風をそのまま受け入れられるものではなかった、と伺っています。

富田 地元の土着的な人の気質———態度は大きくとも横柄ではないとか、「男は強くたくましくあれ」と教えられる一方で義理人情があり律儀、厳しい上下関係はあってもお互いに感謝を忘れないこと———には反発的でしたね。そうした気質には、悪い面だけでなく良い面もあることは頭では認識していましたが、それでも強い抵抗感が勝りました。「地元らしさ」を強く意識する以前はなにかを誰かに強いられることのない自由で安心できる環境にいたこととの落差がフラストレーションになっていたのかもしれません。周囲に対して「そう振る舞わないでくれ」と頼んだところで、何かを変えられるわけでもない。高校生になる頃には、そうした環境に半ば諦めもあって「自分はここにいるべきじゃないな」と、早めに地元を出ようと腹を決めていました。

P 富田さんの人柄が感じられるエピソードのように思われます。これまでのやりとりを振り返っても、ポジティブな面とネガティブな面など、対極的な要素を捉えようとする態度を感じましたし、変えられない要素に対しては諦念をもって接していらっしゃいました。

富田 それが実は私の本質なのかもしれないですね。相反するものは意識的に見ようとすることが。さらに言うと、物事を知ったり見極めたりするうちに、スピーディーに正反対の考えに転向することもあって。ダサいなと思うこともあるのですが、すぐバランスを取ろうとしちゃうんですよね。

P ご自身のことを「素直じゃない」と形容しますが、実は誰よりも素直なのではないかと思うことがあります。

富田 そうなんですかね。うーん。この世には自分の視点の正しさに固執したり、それを強いたりする人がいますが、それってどうなのかなと思うんですよね。自己認識と他者認識のズレが起きる時にどう対処するかでその人の性分が見える気がしていて。意見が食い違った場合に相手を否定する人もいれば、むしろ自分を是正しようとする人もいる。私も昔は意見の異なる相手に喰ってかかっていましたが、今は反骨的な視点が薄まってきたからか、後者寄りになってきました。

P もしかするとそれはより真理に近い「正しさ」を追求するための、自己鍛錬的なプロセスなのかもしれませんね。

富田 率直なところ、ベンチマークとする人が全然見つけられなかったんですよ。我が道を行くしかないと思ってはいるのですが、それでもとある文化人類学者の方にはどこか感じるものがあります。P 今回は実名を伏せますが、分野としては、輪廻転生や前世の記憶などについての研究をされていらっしゃる先生ですね。

富田 研究内容に感銘を受けたのはもちろんですが、私にとってその方は「正しさ」と「楽しさ」の話を行き来する人物像に見えるんです。ご本人がどう自己認識されているのかもわかりませんし、あくまでも「正しさと楽しさが仮に相反するものならば」という仮定ですが、その研究スタイルや考え方を通じて、おさまりどころがなかなか見つからなかった自分の思想を肯定していただいたような感覚があります。

P なるほど。

富田 先行研究をベースに事実を整理して論じるものの、その結論として、学術的な是非を断言しないんですよね。先生の表現をお借りするならば、「エモ散らかす」というか……。いわゆるアカデミアの定石としては、なんらかの因果関係があるべきだと思うんですが、そうした流れから逸脱しているんです。しかも先生ご本人は、その構成が良いことだとおっしゃっている。ここから先は私の解釈ですが———ヒトが理性も感性も備えて生きているなかで、それをフル活用するならば、その双極にしっかりと触れることが大事で、そのなかから読み手(個人)が選択できることがいいんだと。そこから私は、正しさを追求していても、楽しさを得ることはできるんだということをなんとなく教わった気がします。

P 参考までにお尋ねしますが、富田さんは生まれ変わるとしたら、また人間になりたいですか。それとも、動物になりたいですか。

富田 動物がいいですね。人間をしているからかもしれませんが、100年も生きるのはちょっと長いなと思います。たとえば鳥であれば、20年くらいで一生を終えて次の生へいく。不謹慎かもしれませんが、それぐらいのタームがいいですね。

P 人間の寿命は長すぎますか。

富田 100年もあると、理性でいろいろ判断していろんなことに迷いますし、あれもこれもできると思うと欲も出てくるものです。そういう意味では、私もすごく人間っぽく生きてしまっている気がしますが、もし寿命がもっと短かければ「楽しいからこれだけやろう。生活のためのあれこれなんて考えない」とビャーッと生きる気がするんです。

P ビャー(笑)。確かに、もっと即興的に生きるかもしれませんね。

富田 そうなんです。正しささえも要らなくなるかもしれませんし。我が家で飼っているインコを見ていると「飼い主とメシがあればとりあえず良い」というくらい、すごくシンプルに生きているんですよね。もしそれが彼女にとっての幸せならば、それは最高の生き方だなと思うんです。

The Aalto House 02

現象すること、現象が続くこと
———ゲシュタルティングを基底とする対話

P 「ある事物や対象が存在し続けること」からどんなイメージを連想しますか。

富田 「存在し続けること」がまず想像できないんですよね。存在というものはすごく曖昧で、たとえば1秒後に存在しなくなるものだとしても、「今、存在している」と言い切っていいのかが疑問なんです。いっそ「存在する」ではなく、「現象している」と形容する方がしっくりきます。ある物事や事象は存在し続けるのではなく、ただ現象が続いている。そこから連想されるのは、現象していた時のことを記憶している状態でしょうか。現象は誰かに認知可能な状態にある物事だと考えると、仮に認知されなくなった後にも、なんらかの記憶に残るものを存在と言ってもいいのだろうか? と新たな疑問も生まれます。

P 現象とは、認知する「観測者」がいる関係性の中で確立されるものかもしれないと。

富田 概念でも何でも、後世まで存在し続けているものは、人間にとって意味があるかどうかをふるいにかけられ、意図的に残されたものか、あるいは個人の記憶や記録として結果的に残ってしまったものと捉えることもできそうです。その対極にあるのが、人間にはどうすることもできない自然や万物のようなもの。こちらは概念ではなく、リアルにそう感じますね。

P では、富田良祐という一個人をはじめ、「人」を主語にして考えるとどうでしょう。人が生き続けるとは一体どういう現象なのでしょうか。

富田 記憶や記録が身体に蓄積されることでしょうか。マクロスシリーズ『愛・おぼえていますか』(1984)の中心的なプロット———文化や感情を切り離されて育った巨人族が、遠い祖先の時代の歌に触れることで、失われていたはずの感情や文化性を呼び覚まされる———と同じように、人は一枚の絵を見ただけで、その前後にあった五感や、一見関係のない記憶を呼び起こすことがあります。「私は遺伝子レベルで知っている」と感じることもあるかもしれません。その現象こそが、生き続けることなのだと捉えています。

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  • Creative Director, Art Director, Designer。大学で文化人類学を学び、2014年よりB&H(現Patmos)に参加。ブランディングを軸に、グラフィック、Web、映像、音楽、空間など領域を横断して活動。クライアントの美意識を文化人類学的な視点から分析し、時代性を捉えながら、長く残るブランドのあり方を形にする。デザインを通して、クライアントと社会のコミュニケーションを設計する。主な受賞歴にAwwwards、FWA、Good Design Award、Red Dot Design Award、iF Design Awardなど。